ぼさとの定規

元書店員ぼさとが社会のこと、書店のことなど、思ったことを書いていきたいと思います。

なぜ「趣味は読書」と言ったら、なぜ引かれてしまうのか。「村上春樹が好きです」と大きな声で言えたら勇者だという風潮を作ったのは学校の朝読書が原因じゃないかって思った。

 

anond.hatelabo.jp

この記事、すごく共感することが出来ました。
元々、村上春樹のイメージがあまりにもセンセーショナルすぎるのと近年新刊が出るたびに行列ができることばかりメディアに取り上げるのが「ハルキスト」という人種を作り出してしまっています。
この記事にあるように「村上春樹が好きです」といっただけで、村上春樹=ハルキストというイメージになり、そこまで熱狂的な意味で好きと言っているわけではないのに、「ハルキストなんだ」ってレッテルみたいなものを張られてしまうことがたびたびおきていしまいます。
そもそも、趣味を聞いておいて、言う趣味が社会的にタブーがあるという風潮もどうかと思いますが、今回はそれは置いておきます。

村上春樹読んでます」っていうより、「ワンピース」を読んでますって言った方が何故かウケがよく馬鹿にされるどころか賞賛される世の中です。昔はコミックを読んでいる大人を馬鹿にする風潮がありましたが、今はまるで逆の現象がおきてますね。

 

そもそも、こういった「ハルキスト嫌悪」の潜在意識として、読書という趣味を馬鹿にする風潮が根底にあると思います。何故かというと、義務教育期間中の「読書することはえらい」という押しつけ教育によるものが馬鹿にする風潮の始まりだと私は思っています。

読書をすることは確かに知識を吸収するには最善の方法であり、教育現場で推奨するのは当たり前のことだとも言えます。
朝の読書運動(朝の読書運動 - Wikipedia)など、学校で読書を推奨する運動により、読書は勉強という意識が植えつけられいると思います。

その意識があるので、読書をする奴は頭いいアピールなんじゃないかって実際なってしまうわけです。読書はダサいって意識はそこから植えつけられている気がします。

本来、「読書をする」ということが目的なら、自分の好きな本を読んでいいはずです。学校でも好きな本を持ってきていいとは言われます。しかし、活字でなければならないという制限がつきます。
そのため、コミック、雑誌は持ってきてはダメだと本に制約がついてしまい、矛盾があるので嫌々どうでもいい本を読むということになってしまいます。

コミックや雑誌と同じく娯楽である、大衆小説やライトノベルは読むことが許可されて、なぜコミックや雑誌が禁止なのでしょうか。
コミックや雑誌と同じようにたくさんの絵が描いてある図鑑はなぜいいのか?
活字を読むことと知識、情報を吸収するという意味では雑誌、コミックも変わらないもしくは、図解がしっかりとしているのでむしろ読みやすいような気がします。

未だに教育の世界ではコミックは娯楽の一部として悪者扱いにされる傾向にあります。しかし、現代のコミックはメディアとして第一線を走っています。会話のネタとしてコミックの話をした方が弾む場合が多いくらいです。そういう意味では小説の方が影響力が昔より確実に弱まっています。

子供のときにあまりに読書のイメージを悪くする環境が日本の読書人口をも減らしているような気がします。
そして、堂々と純粋な意味で村上春樹が好きですと言える土俵が社会になくなってきているのだと思いました。

それでは今回もこれでお開きです。

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